度会くんは画集が苦手だと言った。一冊のなかに絵が何枚も入っていて、そのどれもが最初は本の中に入る気なんかなくて、一枚一枚おのおののやり方で、およそ読書に似合わない仕方で自分に交渉を要求してくるのが、度会くんには耐えられないらしい。「そのくせ画集の中の絵は、どれもこれもみんなのっぺりしてるんだ。絵の具の凹凸がぜんぶ均されちゃってさ、信じられる?」画集の話をしたあと、度会くんは決まって、高校の時に付き合っていた女の子のことを話す。絵が好きな子で、でも美術部ではなく、美術史にも詳しくなくて好きな作家もこれといってない、パソコン部の幽霊部員だった彼女の話。彼女は休み時間に友達と話もせずに画集を眺めて過ごしていた。放課後もパソコン室に行く代わりに、教室で画集を眺めていた。人と話をすることのない人だったが、告白してきたのは彼女のほうからだったらしい。彼女は画集を取り出して、栞の挟まったページを広げて度会くんに見せた。それは乱雑に色鉛筆の線を書き殴ったような絵で、色とりどりの線たちの中で人影らしきものが、これも書き殴りの黒い線で描かれていた。彼女は黒い人影を指さして度会くんのほうを見た。度会くんが困惑していると、彼女はちょっとうつむきながら、この絵を見たとき、まっさきにあなたのことを思い出しました、ページを開いた瞬間、ぱっと、それこそ瞬間的に、直感的に、でもそれは、このシルエットがあなたに似ていたからではなくて、というか、あなたに似ていなかったからこそ、なんというか、これはあなたでしかないような気がしてきて、そんな気がしたらもうますますこのシルエットはあなたでしかないので、そう思うと画集が人一人分の重さを持ってくるので、腕がとても疲れてしまう、わたし、あんまり運動しないし、力もあんまり強くないから、ちょっと、釣り合いを保たなきゃいけないんです、その、だ、駄目ですか? 度会くんはなんだかポカンとしていたけれど、何も答えずにいると駄目ですか、ともう一度訊いてくるので、駄目って何がと問い返すと彼女はうつむいて、画集を持つ手をぷるぷる震わせながら顔をかーっと赤くするばかりなのでこれはそういうことじゃないかと度会くんは思った。付き合ってほしいってこと? と訊くと彼女はもぞもぞしながら、付き合う、というか釣り合うというか、その、うーんと、う、うん、と言って曖昧に首を縦に振った。何かよくわからない点は多々あったけれど、度会くんはそれまで告白されたことがなかったとかで、初めて自分に向けられた愛の言葉にふわふわしてしまって、なんとなく受け入れてしまったらしい。
で、その人とはどれくらい続いたの、と訊くと、度会くんはまた煮え切らない答え方をする。付き合った、という感じがしなかったので、何とも言えない。「彼女はずっと画集を見ていて、僕とはろくに話をしなかったんだ。声を掛けてもうんとかああとか言うばかりで、学校に来てから帰るまで、一心不乱に画集を見つめていて、彼女は何冊も何冊も画集を読破していった。そんな調子だから僕はまもなく彼女と交流をもつのをやめたけれど、ごくたまに僕のことをじいっと見つめる彼女と目が合う時がある。でもどうしたんだいと話しかけても、何でもないと言ってまた画集に戻ってしまう。」休日に、美術館にでも誘えば良かったのに。誘ったさ、けれど彼女は乗ってこないんだ。「美術館なら、ひとりで見られるもの」って、素っ気ないこと言われて。
度会くんが画集を読めなくなったのは、その頃からだという。
画集が苦手

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