あなたがここにこのようにやぶれかぶれで、しかしそのことを悟らせまいと素知らぬふりしてぽつねんと立ち尽くしているのは幸いというもので、そのおかげであなたは差し延べられるいくつもの手のひらに次々頬を殴られたりせずすむのです。いったい手というものは戯れに延びてくるもので、なにかを触っていないとそれは手であれないものだから、手というものは右の手で左の手を、左の手で右の手を触ったりして、触っているのは、触られているのは、右か、左か、などといってひどく考えこむようなふりをするのです。触れる、掴む、ひっかく、繫ぐ、それらをいっぺんに与えられている手というものは、しばしばそれらをもてあまして、自由に動かなくなるまでの時間をいたずらにさまざまなものに近づくことでやりすごすのです。そうしてたまに大事なものを握りしめたり、なんの理由もなくなにかをぶったりして、自分が手であることを確かめるのです。
あなたは今しも泣き出しそうな一瞬をなんとかこらえて、真一文字の唇をコートの下に隠す。あなたは自分の愚かさを呪いつつ、うつむきながら家路を急ぐ。アスファルトにはきらびやかなイルミネーションが反射する。イルミネーションは街路樹に巻きついてびかびかと点滅し、人々はマフラーから顔を覗かせてその光を舐めまわすように見つづける。身体と身体を密着させて互いの手と手を絡ませて、光の点滅を眺める人々の目は上を向いており、彼らの目が光をなでるごとにイルミネーションはいっそうびかびかと光を放つ。狂ったように輝くライトのせいで星々は闇のなかに埋もれてしまう。下を向くあなたの視線の先にはアスファルトがある。アスファルトは黒い身体にびかびか光るイルミネーションを遠慮がちに跳ね返して、あなたの目にさまざまな色の光を届ける。歩みを進めるあなたはアスファルトなど見ていない。あなたはアスファルトを見つめるでもなく、眺めるでもなく、それでもあなたの目に光はいくつもいくつも映りこんで、あなたはコートの下で唾をごくりと飲みこんだあと長い長い溜息をつく。あなたはその目に光をいっぱいに溜めこんでアパートの扉を開ける。あなたの手がスイッチを押す。部屋は蛍光灯の光に照らされる。あなたが食事を終え、歯を磨き、シャワーを浴び終えれば、まもなく蛍光灯は消され、あなたは暗闇のなかでベッドに身体を横たえる。今日もまた、誰の手も延ばされることのなかったあなたの身体はぐったりと疲れ、あなたの目はしかし、暗闇のなかでさえざえと醒めつづける。あなたは無理矢理に瞼を閉じる。あなたの目を覆った瞼の裏に、帰り道で溜めこんだ光がいっせいに散らばり、それらは暗がりに大小さまざまな点となって、精一杯の力であなたの目に向かって光ってみせるのだった。あなたはその光をしかと捉え、その光に抱かれて緩やかに眠りに落ちていく。あなたは短い夢をみる。夢から醒めればまた朝が来る。あなたは重い身体を引きずって布団から出る。朝日の光に、瞼の光は残らず殺される。あなたはやかんに湯を沸かす。コンロの前で立ち尽くすあなたが一滴の涙を流す暇もなく湯が沸き、あなたはパンを焼きはじめる。部屋は朝日で満たされる。昨晩の夢を思い出す前に、パンが焼ける。パンをかじるあなたは今日も、窓ガラスに背を向ける。


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